神崎学区連合町内会                       




  

神崎の歴史       


広島市の歴史によると1589年(天正17年) 吉田の郡山城主、毛利輝元が五箇庄の箱島(現在の白島)を中心とした

干拓と広島城の築城を命じたとある。天正19年に城は完成する。


廃藩置県(明治4年) 1871/7/14  (1871年8月29日より廣島藩は廣島県となる)

明治5年(1872年)4月、広島城下は広島県第一大区となり、明治11年(1878年)11月に広島区と改められるとある。



       市町村制の施行1889年(明治22年4月1日)、公布は明治21年(1888年)  1889/4/1より広島市となり県庁所在地となる



〇下記の城下絵図が記されたのは弘化二年(1845年)で、天保の後で嘉永の前である。
江戸時代であり筆頭老中が水野忠邦で解任された年です。
この時代の地図に船入村に市街図が記されていて、その中には「竹の鼻(竹ケ鼻)」、「瓦地(瓦焼)」、「神崎」の地称があります。
文政時代の地図には神崎の地が記されています。神崎には渡船があり現在の舟入本町から住吉町を行き来したものと思われます。
     



〇現在の神崎学区は船入村の一部と神崎、瓦地(瓦焼)、竹の鼻が地名の変遷の後に神崎学区が構成されているようです。
広島市民と市政によると現在の河原町は明治15年より神崎、瓦地、竹の鼻(竹ケ鼻)がまとめられ瓦と同じ発音の河原をあてて河原町となったようです。それと同時に神崎という地名が無くなった年でもあります。神崎、瓦地、竹の鼻は舟入村の字名と思える。

現在の神崎学区は上舟入町と河原町を北端に南は舟入幸町までですが以前は現在の土橋町、小網町を北端に南は舟入本町まででした。
(ひろしま市民と市政、四季号)を参照

〇地図にある「猫屋橋」は現在の「本川橋」であり現在の本通りに抜ける道は西国街道です。またその下流には渡船があったように書かれていて中島新町に渡ものと思います。後に現在の西平和大橋の少し上流に架かっていた新大橋(被爆後は無い)の辺りと思えます。河原町のお地蔵さんはこの渡船を使用して中島新町から遷られたと考えられます。



住吉神社の建立時期
1733年(享保18年)に始まり、宝暦年間(1751から1764)頃に空鞘稲生神社の摂社になった。知新集によれば寛政10年(1798年)に建立されるとある。
第二次大戦後に神社制度の改革で空鞘稲生神社から独立。加古町と吉島町の氏神になった。



瓦地(瓦焼)
此所昔瓦焼師へ賜ハり其子孫今に御免地として其業をなす、はしめハ瓦師の住ける故瓦焼といひけるならんを後地此あたりの惣名となれり、

竹の鼻.(竹ケ鼻)
御材木場あり、此内に御歩行組以下の御多門あり、其の奥に罪人を刑罰する場所あり、すへて此あたりを竹の鼻と言ハもと竹藪なりしを切ひらきける故よへるか、此所正徳五未年度貢地臺畝十歩引高にて御作事方御用地となりぬ、罪人を刑罰する事ハそれより古く温故集に嘉文三年発卯竹の鼻御成敗天心院殿御覧と言事もみえ、むかしむかしハ國君御覧ありし事多く顕妙院殿の御時體國院殿若君にておハしまし、ゝか御爾殿なから御覧ありし事も記に出たり、此體國院殿の御代より其事ふつにたゑ今は記もそら事にはあらすやと覚ゆる如く成りぬ、此竹か鼻の御仕置者いつれの時よりはしまりしといふ事詳ならす、人古く御入國のはしめなとハ重罪の者は・・・・・中略・・・・・なとハミな御家老衆下屋敷にてとり行ハれし事嘉永頃の記録に数多く見えたり。
〇江戸時代の刑罰施設⇒中国地方の刑場⇒広島藩W⇒竹ケ鼻刑場では下記の記載があるようです。
 「廣島懸史」では舟入村の内に竹ケ鼻・瓦地・神崎の称あり。竹ケ鼻は古来の刑場なり、其始明ならざるも寛文の頃、成敗ありしこと、旧記に見ゆ、後に御材木場となり、其奥に刑場ありたり。其の前は油屋町油地傍または木挽町に在った刑場が竹ケ鼻に移転したとある。また、竹ケ鼻処刑場の設置時期が寛永10年(1633)と伝えるものもあり、知新集では重罪人の処刑を家老の上田公下屋敷において行われたとも記されている。

神崎の地名は?
地名の由来は諸説あるも確たるものは不明
@この地に神崎さんが住んでいたから。(人の名が起源ならば大きな功績を遺した人物か)
A川の先(崎)にある場所だから。かつては神崎の地が崎にあり川の崎(かわんさき)からきたとも。(個人的にはこの由来が有力と考えますが・・)
B神社の先にあるところ故(かみさき)からきたとも。しかし、神崎の地名は住吉神社の建立以前から呼ばれていたと考えられます。



神崎渡船(神崎渡し)
宝暦八年(1711)よりはしまる、与一といへる者渡し守す御船手の支配なり。
船入村と水主町新開の間上部にある点線が「神崎渡船」
下の地図では四か所の渡船が記されていて、北から三篠橋付近、空鞘橋付近、西平和大橋付近、住吉橋付近が認められます。
(神崎渡)宝暦年間より「神崎渡」と称し渡船場の設ありしが、明治43年、田中權次郎、松浦三郎、川本政蔵、吉野伊三郎、岩崎万次郎の五人発起して架橋工費の三分の一を寄付し、本市より三分の二を支出して起工する。同年9月11日落成開通す。
(本川渡)文化より本川渡と称し、西地方町柴屋武助なるもの渡船場を創設せしが、新大橋(西平和大橋の少し上流にあった)が明治6年8月初めて架橋される

船入村
沼田郡に属し廣瀬組南の方に隣る、開発しれす、元禄14年辛巳年享保十己年兩度地詰あり、名のよしハ此所もと入江にて百船の入口なる故よへるか又竹の鼻(竹ケ鼻)にむかしより材木場有ける故もと材木新開とよへる由もいへれと船入とよへる方かへりて古く覚ゆ。

地蔵尊
知新集によると享保二年(1717年)頃に井口惣佐衛門なる人が川向こうの中島新町より移り住む際に炭焼き小屋にあったお地蔵さんを遷されてお堂を建立して安置されたと記されている。
(知新集及び広島城(郷土館)第四部 広島城下の橋梁・渡船)


 芸藩通誌 巻六 (文政8年)1825年 神崎の地図はこちらをクリック



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